竹之高地のなりたちを考察
竹之高地は400年前の戦国時代の落人が移り住んだ隠れ里とされている。周囲を山に囲まれて、他から人を寄せ付けない地形であったからここに根を下ろしたのだろうと推測する。
戦国の落人の武将が5人の家来を連れて探したこの外界から遮断された隠れ里に住み着いた。武将と家来だけではなくその家族も含めて総勢10人はいたと思う。うっそうとした木々を切り倒して家を建てて、斜面を削り畑を作り、水のある所には水田を作り、自然の動植物を生きるための食料としたと思う。自給自足の生活で何とか生き延び、冬は豪雪の中でじっと耐え忍んで、子孫を残して来た。平らな土地が少なく山の形に添った細長い段々田んぼが多い。畳一枚の小さな田もあった。昭和の時代まで開墾は続いた。
時代は過ぎ、いつのころからか隠れ里の意識が薄れて、南側は高龍神社の山側から蓬平・濁沢へ、東は萱峠から山古志村種須原へ、北は南蛮峠から柿町への山道を作り、物資を運び人の往来ができ、周囲の村と交流が始まった。
昭和30年ころまで、長岡に行くには、南蛮峠から柿町に行くのが一番近かったという。小生の母親は長岡からの帰りが遅くなって暗くなり、雨が降ってきたので「割れ石」に一晩泊まったと言う話を聞かせてくれた。
昭和30年ころには60軒、300人が暮らす集落となった。人口は増えていったが若者の働く場所もなく徐々に町に働き場を求めて村を出てい行くようになった。昭和40年ころ車の通れる道路が開通した。車が竹之高地に入ってきて利便性が良くなり、一家での引っ越しが始まり家と住民が加速的に少なくなった。中越地震前に10軒17人ほどに減り、地震後は住民が1人となった。
地震後に道路が拡幅され、長岡駅から15km、車で30分ほどで来られるようになった。冬も除雪されいつでも不動社社務所まで入れる。ただし「落人の里」である竹之高地はおいどまりの集落であり、集落を過ぎればいきなり山道となる。夏でも山越しは危険で、雪が降れば当然通行止めとなる。登ってきた道路を引き返して帰るしかない。
竹之高地のなりたちの詳細については 原刀利松先生著「たけんかうちの話」をご購入下さい。社務所においてあります。
写真は昭和55年(1980年)撮影の 航空写真を引用
赤いトタン屋根が目立つ、家屋は33軒はあったと思う。右上に杉の木に囲まれた旧不動様社殿(赤い屋根)が見える。